名古屋の解放区(アジール)=七ッ寺共同スタジオが創立40周年を迎える!という事は、わたしのアングラ=小劇場人生も40年以上という事。因みに、アングラとはカネもメイヨも関係ない、最下層の民衆に己の表現行為を捧げる役者の「生き様」である。私もアングラの化石でちゃんと死にたいものである。想えば、遠くまで来たもんだ。こけら落し公演『夢の肉弾三勇士』は台風直下、照明が飛んで劇団員が電柱によじ登って「盗電」しながら上演し!終幕には場外乱闘劇のオマケまであった!誰もが熱く《青春》していた40年前の《伝説》である。つかこうへい、山崎哲、北村想といった同時代の演劇戦友に出会ったのもこのアジール(七ッ寺)。坂手の野外劇『東京アパッチ族』をやるのか!!熱い魂の触れ合いのある「3・11以降のアングラ」にしてくれよ!!期待しています。
七ツ寺共同スタジオが40周年だそうで、この年月というのは、私が名古屋に出て来て暮らし始めた年月とほぼ同じに該り、また、私自身もその小屋を常打ちにして公演をしたこともあり、そういう意味では感慨深く思って然るべきなのだろうが、最近は過ぎ去ってしまったものは、もうどうでもイイじゃないか、という、「過去の轍には拘らない」思念が強く、去来するのは近隣の「木の実」という居酒屋で安酒傾けつつ、こんな未来が来るとは夢にも思わなかった和やかな昔のことだけだ。いまは影も形もなくなったその居酒屋の辺りを通ると、黙礼だけはすることにしている。
「吉本隆明が亡くなった」とIさんから電話があった。Iさんは私の名古屋プガジャ時代の先輩で映画担当だった。私が働くようになって初めて出会ったインテリで酒呑みだった。よく七ツ寺共同スタジオそばの「木の実」で芝居や映画をアテに酒を呑んだ。時に想さんも合流して話が弾んだ。私たちは皆、一様に貧しかった。貧しかったからロクなアテも頼まず、ただただ酒を呑んだ。芝居と映画と文学とマンガetc.若い私らにはそんなゼイタクなアテがあれば充分だった。
場所の記憶は人の記憶である。70年代のあの酒は今もって私の現在である。
大阪へ来て早30年になる。私は、七ツ寺共同スタジオ〈10周年〉の年に名古屋を離れたのだった。
ある日、フラッと入った映画館では、天井にスクリーンがあってさ、客は寝転がって見ていたよ……などということは、まず無い。映画館という場所は、決まりきった空間構造を有していて、それが映画への集中力を生み、観客の安心感も生んでいるのだろう。近年それは、シネコンの普及により、ますます増強されている。シネコンの無個性さは、「どこで見たか」をひたすら希薄化させる。
そういう映画の世界の末端にいる者から見ると、七ツ寺共同スタジオという空間は、まったくもって正反対だ。まず、どこに客席があって、ステージがあるのか、入ってみるまで分からない。また客席を見つけて座れたからといって安心もできない。客席が舞台にいつ変貌するかも不明なのだ(昔、麿赤兒が客席をよじ登ってきたことがあったっけ)。この自由で柔軟な空間こそ、七ツ寺の素晴らしさだ。誰か、ここの天井に映画を映してみないか。
ひと頃まで、私は、実りのある関わりを共有できた人と別れる時こんな挨拶をした。「こんど会う時はお互い成長した姿で会いましょう」と。これは相手が将来の楽しみな、頼もしい人に限ってのことである。その人のもっと成長した姿を見たいと切望するからである。最近はそういう挨拶はしない。一寸、キザだし、面映いからだが、何よりも馬齢を重ねる自分がこれからも成長する自信がないゆえである。でもこうは言える。「あなたの成長する姿を見たい」と。七ツ寺共同スタジオは満40歳を迎えた。これからも演劇表現の新しい地平を切り拓いていかねばならない。冒頭に掲げた挨拶を心中に密かに交わしながら。